鬼星犯科帳





目次 第一第二第三幕第四幕幕切れ後書き

 

 

 

〜第一幕〜

 

 

 ここは地底に構える粋と酔の都市――旧都。

 その旧都の中での一番の大通り、旧地獄街道は陽気な妖怪たちと、そうでない妖怪たちの往来で賑わっていた。

 行き交う妖怪たちの息で、辺りには酒気が漂っている。

 連ねた軒先。掛かった暖簾。煌煌と燈る提灯。

 吟味しつつ歩を進める妖怪たちであったが、近頃旧都に聞こえる噂がその足取りを重くさせていた。

 

 ――最近、旧都でスリが横行しているという。

 

 酒を飲み、様態はへべれけ。

 飲み屋の店主が肩を揺らし、ようやっと勘定の時分になろうというところ、銭入れがなくなっているのに気付く。

 そんな事例が相次いでいるのである。

 

 一連の事件は星熊勇儀の耳にも入っていた。

 そして、今も勇儀そのスリを探すべく街道を練り歩いている。

 

 勇儀は旧都の礎を築いた鬼の一人である。

 旧都はもともと地獄の一部の土地であった。鬼がそこに社会を築いたのである。

 今こうして旧都があるのは、この鬼たちの尽力があってこそ。

 となると、勇儀はやんごとなき身分であるはずなのだが、俗に伍することを厭わない性分と、妖怪当たりのよい快活な鬼柄で旧都の皆から親しまれている。

 

 一方、"力の勇儀"と称されるように、脅威としての鬼の役割もまた担っている。

 親しまれると同時に、畏れられる存在なのである。

 そのような事情から、旧都の治安に関しては勇儀も殊に気にしていたのであった。

 であるから、先達ての凶事に勇儀も、

 

(このまま、のさばらせるわけにもいかないねえ)

 

 と問題解決に躍起なのである。

 かといって、妄りに衆を惑わすものではない。

 犯人を捕まえるにも、派手な捕物を控えた方が良い。特に古明地の令嬢が事件に関わることは避けた方が望ましい。それが勇儀の考えであった。

 しかし、皆に愛想を振りながら、睨みを効かせる。それがこなせるほどには、

 

(器用じゃあ、ないね……)

 

 そう考えて、苦笑いを浮かべる。

 勇儀は旧地獄街道を一つ外れた通りへ入っていく。

 右へ左へ、油断なく視線を泳がせ、耳をそばだてる。

 しばらく、そうして裏通りの見回りを続けていた。

 そこで、横合いから声がかかる。

 大通りに構える芝居小屋――〔さぬきや〕を取り仕切っている座頭、本矛狸之介である。

 この裏通りには狸之介の住居があり、これから芝居小屋に向かうものと見えた。

 

「おう、これは珍しいことで、勇儀姐さん。こんな裏通りくんだりまで、よくきなすって」

「これはこれは、狸之介翁」

「翁ときなすったか。この古狸には過ぎた物言いでありますことよ。爺ィでよござんす」

「ははあ、何だい。爺ィに姐さん言われる私は婆ァってわけだね?」

「とんでもねえ。姐さんは誰にとっても姐さんなんでさあ」

「ふふ、褒め言葉として受け取っておくよ、狸之介どん」

 

 この狸之介どん、旧都では〔千両の狸之介〕として名の知れた役者である。

 狸之介が弟子を後継ぎに決めたとて、翁はとっくにご隠居していたものと勇儀は思っていたのだが、

 

「まだまだ、それはできませんな」

 

 と言う。聞けばその後継ぎは、

 

「芝居の筋は滅法いいが、こっちのスジもねえ」

 

 老狸は人差し指と親指の腹を擦り合わせ、『縒る』仕草を見せた。

 

「ヒモかい?」

「ヒモですよ」

 

 聞けばその弟子、加えて、なかなかの粋人らしい。あの手この手で小屋を抜け出す。稽古場には酒と女の臭いを付けてやってくる。とても一座を任せられたものではない。

 勇儀は狸之介の愚痴を聞き終えて、

 

「その不孝者の名はなんて言うんだい?」

 

 と尋ねた。狸之介は得心した顔で、右の拳で左の掌を、ぽんと叩く。一挙手一投足が芝居がかっているのが狸之介の常である。心底役者である。

 

「おお、そうでしたな。き奴めの名は穴熊業平、〔狢の業〕で通ってます。後で姐さんから吃と叱ってやってくんなせえ」

「〔狢の業〕か、覚えとくよ」

 

 その後も、他愛ない世間話で狸之介との久闊を叙した。

 勇儀は狸之介と別れ、引き続き裏通りに目を光らせる。

 しかし、結局怪しいものを見出すことはできなかった。

 そして警邏もそこそこに一軒の旅籠へ足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 

 旅籠の中の広間で勇儀に集められた三人が話し込んでいた。

 それぞれ順に、釣瓶落としのキスメ、土蜘蛛の黒谷ヤマメ、橋姫の水橋パルスィである。

 主だって話を進めていたヤマメが勇儀に気が付いた。

 

「見回りご苦労さん、勇儀」

「ああ。そっちはどうだったかい?」

 

 勇儀が言うと、パルスィは肩を落としながら答えた。

 

「地上へ行くモノも、地底へ来るモノにも怪しいのは見えなかったわ。スリはまだ、地底に居着いているかもしれない」

 

 パルスィは地底と地上を橋渡しする橋姫である。この二つを行き来するモノ(これには人間も妖怪も含まれる)はパルスィの目に付くことになる。

 一連のスリの騒ぎは、最近増えてきた地上から来たモノの仕業とも言われている。もしそうなら、パルスィはその無頼をみすみす地底へ入れてしまったことになる。表だって責められることはないものの、その責任は自身で負っているようだった。

 

「ヤマメとキスメはどうだい?」

 

 勇儀は二人の方を向いて、聞いた。

 二人は大通り――旧地獄街道を見回っていたのであった。

 

「どうもこうもないよ――」

 

 答えたのはヤマメである。

 

「スリは見つかんないし、それに見回りしてたら堕天狗が『そんなにきょろきょろして、獲物の物色ですか?』って、私のことをスリみたいに言うのよ。冗談なんだろうけどさ、気分悪いったらないよ」

「そう邪見にしちゃあいけないよ、ダ天だって気が立ってるのさ。近頃、瓦版はそればかりだから、厭にもなる」

 

 ヤマメと勇儀の言う〔堕天狗〕、〔ダ天〕とは、旧都で発刊されている瓦版『ヰ駄天新報』の読売――椋鳥白羽のことである。地上にある山が出自の天狗で、瓦版の記事も自ら書いている。

 その瓦版の名から〔ダ天〕と呼ばれていて(さしずめ屋号と言ったところか)そこから〔堕天狗〕という別称に派生したのである。

 

「それで、勇儀はどうなの?」

 

 パルスィが聞く。今度は勇儀が成果を告げる番である。

 

「変わったことは、なかったね。あ、そういや、さっき旧友にあったよ。狸之介っていう役者なんだけど、知らないかな?」

「知ってるよ、さぬきやの座長でしょ。あのお爺ちゃん頑張ってるよねえ。でも目立つのは華のある業さんの方なんだけどね」

「そうなのかい、ヤマメ。だけど、その業っていうの相当に好者らしいね。狸之介どんが愚痴ってたよ」

「ええ!それって本当?」

 

 ヤマメが驚いた声を上げる。が、すぐに声の調子を落とす。

 

「それにしても、初耳だよ。業さんの、そういう醜聞の類は微塵も聞こえて来ないんだ。でも師匠からのタレコミとなるとねえ。堕天狗が耳に挟んだら間違いなく一面記事だよ」

 

 瓦版は一面刷りであるから、大抵の記事が一面記事である。

 

「師匠に似たんじゃないの?」

 

 パルスィが言うと、勇儀は「どうしてそう思うんだい?」という顔をしてパルスィを見た。

 

「この前、旧地獄街道で逃げる若い女にしぶとく声をかけてたの。今までしつこく付きまとってたのかしらね。女は必死で逃げ出してたわ」

 

 それを聞いて勇儀は、

 

(はて、狸之介どんがそんなことするかな……)

 

 と、思案顔になる。

 ふと、勇儀がキスメの方を見ると、キスメが浮かない顔をしていた。

 勇儀がその理由を知ったのは、これより後のことである。

 

「それじゃあ――」

 

 勇儀が皆に声をかける。

 

「雑談もそこそこに、打ち合わせを始めようか。旧都に巣食う、怪力乱神を祓うために」

 

 盃に張った水面が、怪しく揺れた。

 

――第二幕へ――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〜第二幕〜

 

 

 女は旧地獄街道を歩いている――周到に機会を窺いながら。窺うはスリの機会。

 何を隠そう、この女こそ旧都を脅かしているスリ師そのものなのである。

 最近は旧地獄街道にも監視の目が増えてきたが、女に言わせれば、皆尽くザルだ。

 スリを見つけんと視線を右往左往。これがいけない。

 私はスリを探していますと言わんばかりの有様に、忍び笑いをしないではいられない。

 

 一方、このスリ、獲物を見つけるのに、微塵も顔を動かさぬ。

 ザルの警邏もそうして手に取るように――まさに手に取っているのだが――見えるのだ。

 女はザルがいなくなったのを確かめてから獲物を探しにかかる。

 すると、四十間ほど前から一人の娘が千鳥足で歩いてきた。

 娘の懐には、硬い膨らみを見て取れる。

 

(アタシに言わせりゃあ、千鳥じゃなくてカモだがね)

 

 女は不自然でないほどに歩を緩ませる。

 

「まッたく……スリが怖くて酒を飲ンでられるかッての!」

 

 娘は不機嫌に言いながら、一升の酒瓶を喇叭の如く構え、中の液体をぐびりぐびりとやる。

 

「橋姫だって楽な仕事じゃア、ひっく、ないッてのにさ……」

 

 脈絡のない言葉。これを見て女、

 

(こいつは橋姫さんか。なかなかどうして、出来上がっている)

 

 と好機を確信する。

 橋姫の揺れる上体、絡まる脚を見ながら、カモの娘と呼吸を合わせるように自らも律を刻む。

 橋姫は足をもつれさせてよろめき、女に体をぶつけることになった。

 しかし、これも女の計算の内である。

 

(やった……)

 

 ぶつかったその瞬間に橋姫の懐から銭入れを失敬し、自らの懐へと入れてしまった。

驚くべき早業である。

 しかし、そこで得意気な顔もしていられない。

 女はすぐさま迷惑そうな顔を橋姫に向けてみせる。

 

「なアによ……悪かッたわねえ」

 

 橋姫はそう言って去ってしまった。

 傍目には、女はへべれけの橋姫にぶつかってこられただけの、被害者に見える。

まさか、銭袋を掠め取った加害者には見えまい。

 そして女は裏通りに入る。さらに奥の通りに女の住む荒屋があるのだが、そこまで遠回りをして向かう。

仮に追う者がいても、途中で見失うように、わざと複雑な道程を踏んでいた。

 

 荒屋に入って女はようやく息を吐く。

 たんまりと手に入れた獲物を卓へと放り投げる。じゃらり、と金物の鈍く擦れる音がした。

 女は満足気に頷くと、手慣れた様子で卓を寄せ、敷き布を退かし、畳を外した。方形の板――蓋を取り外して、壺を抱え出す。その中に銭袋を入れると、件の壺や調度の位置も元に戻した。

 

(今日は調子が頗るいい、まだいける……)

 

 欲を出し、もう一度街に繰り出そうと荒屋を出た――そのときである。

 

「清々しい顔だねえ。どうしたんだい?瘧でも、取れたのかな?」

 

 女に語りかける影が一つ。

 歯の高い下駄、鼻緒は赤い。

 足首に嵌められた枷、枷から垂れる鎖が歩を進める度に踵を打つ。

 ハイカラな傘を思わせる腰巻、裾は膝下で揺れている。

 半袖の襦袢、伸びる両腕の手首には枷が嵌められ右手には大盃を携える。

 盃を傾けて顔を覆う。一口で飲み干し、盃を下げる。

 露わになった額、星を掲げた赤い角。

 その下にある両眼が女を射竦る。

 

 星熊勇儀の姿がそこにあった。

 

「いやあ、懐かしい顔によく会う日だねえ。再会を祝って酒を酌み交わしたいところだけど、久闊を叙する前にまずは握手を交わそうか」

 

 勇儀は大盃を左手に持ち替え、右手を差し出す。

 それを見て、女もそろそろと袖を捲り、右手を差し出した。

 先ほどは橋姫の銭入れを掠め取った手である。

 

「綺麗な腕だねえ。一丁、撫でてもいいかな?」

 

 言うや否や、勇儀は右手で女の腕を丁寧に撫でた。そして握手を交わす。

 

「ああ、済まないねえ。今日は――」

「……!」

 

 白いはずの女の肌が、薄く、黄色に染まっている。

 勇儀は、にやりと笑ってみせた。

 

「今日は、手にカラシを塗りたくっている日なんだ」

 

(ぎゃあああ……)

 

 女は、声にならぬ叫びを上げながら、その痛みに悶絶していた。

 それを見て勇儀は今更のように手を離した。

 

「どうやら、大したご挨拶になったようだね」

 

 女は目をかっと見開く。その目はあろうことか、女の腕に現れていた。

 女は涙を湛えた百の目で、鬼を恨めしげに睨めつける。

 妖怪――百々目鬼の姿が、そこにあった。

 

「あんたの所業はこれまでだよ。観念しな――百々目鬼!」

 

 女の両腕には無数の目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目。

 右腕と左腕で都合九十八の目、顔の双眸と合わせれば百となる計算である。

 それぞれに一つずつ瞼があるのだが、そこにカラシを大量に塗りたくられたのである。目を堅く瞑ろうとも、滲む涙に溶け込んだカラシが眼球へ迫ってくるのである。

 カラシの塗られた面積から考えるに、三十ほどの眼球が被害に遭っているようだ。

 

 女が苦しんでいると、勇儀の後ろから、ひょこりと一回り小さな影が現れた。

 橋姫――水橋パルスィである。パルスィは女の様子に堪え切れず腹を抱えて笑っていた。

 

「う、橋姫、アンタは――」

 

 酔いどれていたのではなかったか、そう聞くのを見越してパルスィは勝ち誇ったように言った。

 

「素面が酔いどれを演じるのと、酔いどれが素面を演じるのと、どちらが簡単かしらね?」

「そうだよ。お前さんは――」

 

 勇儀は盃を右手に持つ。そしてパルスィから受け取った酒瓶を傾け、盃に注いだ。

 

「一杯食わされた、ってわけだ」

 

 勇儀はぐいと一飲み。さながら勝利の美酒である。

 

「ぐ……でも、どうしてここが――」

「それは、後ろにいるのに聞いたほうがいいんじゃない?」

 

 パルスィに言われて女は後ろを振り返る。振り返らずとも腕に目があるので、意味のない動作である。それもわからぬほどに、女は混乱していたらしい。

 女の後ろには誰もいない、しかし、背後でカサカサと何かが動く気配がした。

 見れば、一寸ほどの蜘蛛が背中についている。その蜘蛛が――

 

『どろーん』

 

 と、人型へと姿を変えた。

 現れたのは、黒谷ヤマメである。ヤマメは蜘蛛に化けて(あるいはそれが本来の姿なのかもしれない)その上で女に接近していたのだ。

現れるや否や女を羽交締めにした。これで女は逃げる手段を失ってしまった。

 

「効果音を自分で言っちゃったよ。恥ずかしいったらないね」

 

 『どろーん』は自前のものだったらしい。

 

「そうそう、私はさっきみたいに蜘蛛に化けてパルスィについていたんだよ。二人がぶつかった瞬間にぴっとね、糸の端をくっつけた。スリが横行してるっていうんなら、普通は接触を避けると思うんだけどね。あんたはパルスィの動きを読んでわざとぶつかりに来たみたいだった。怪しいと思って糸を手繰ってみたら、案の定、だったよ」

 

 どうやら、パルスィはそのために何人もの酔っ払いに、体当たりを仕掛けたようだった。当たり屋さながらである。

 そして、とうとう目的のスリにぶち当たったのであった。

 

 ヤマメの吐いた極細の糸は、ヤマメ自身にしか視認できない。

 三人はその糸を辿って女の元に、それこそ、辿り着いたのであった。

 さあて、とヤマメは言う。

 

「神妙にお網にかかってもらおうか」

 

 

 

 

 

 

 捕えられた妖怪、百々目鬼――九十九目女(つくもめめ)は裏の世界では名うての女スリ師であった。

 

「ぷふふ。おめめだってさ、そのままじゃん」

 

 ヤマメが笑ったのは、女の二つ名〔百々目鬼のおめめ〕である。捻りがないと言えばそれまでだが、逆に言えばそれ以上に相応しい名はないと言える。

 

「ヤマメ、名前を笑うのは、趣味が悪いわ」

 

 パルスィがヤマメをたしなめる。パルスィ自身もその名前故思うことがあるらしく、その点では女の味方であった。

 

「ふん、アタシのことはいかにでも笑ってくんなまし」

 

 女は気にせず話を続けた。

 女は盗人稼業から足を洗ったのだが、

 

「スリが足を洗ったところで、何の加護もないでござんしょう。スリを止めるなら洗うのは足でなく、手でさ」

 

 という具合なのである。女は流しで腕についたカラシを洗い落としながら言った。

 女は寡暮らしであった。加えて仕事もろくになく、すぐに食うに困ってしまった。

 結局、女は昔の稼業に戻ったのである。女の話をまとめると、このようであった。

 

「どうして――」

 

 今まで黙っていた勇儀が口を開く。

 

「どうして、早く相談してくれなかったんだい。昔のことで、気が咎めたのかい?」

「そ、それは……ええ、そうでござんす。挙句、堅気には戻れず、泥沼でござんした」

「そうかい、よく語ってくれたね」

 

 勇儀は女の肩を、ぽんと叩いた。

 

「私は、盗まれた金が返って来て、お前さんがもう二度とこんなことはしないと誓ってくれるなら、過去のことは聞かずに済ませるつもりだった。話せ、だなんて一言も言ってない、全部お前さんから語ったことさ」

 

 勇儀は「いいかい、お前さん」と厳しい目で女の顔を見た。

 

「旧都にいる妖怪は地上で忌み嫌われたものだ。だけど、皆、そんな過去のことはそれほど気にしないで生きている。旧都はね、過去に囚われず今を生きるためのところなんだよ」

 

 女は息を飲んで次の言葉を待った。

 

「ただ強く、勇ましくあるってだけが勇気ってわけじゃない。ときには、自分の弱さを吐露することだって、立派な勇気なんだ。そして、お前さんは少し後れちゃったけどね、勇気を示した。私は、その勇気に報いなきゃあいけない。私は、いや、旧都はお前さんを許す。そしてお前さんが旧都で愉しく暮らせるよう約束するよ」

 

 勇儀は言い終えると、厳しい表情を崩して言った。

 

「さあ、皆で酒でも飲もうか。盃を交わせば、私たちはもう――朋友だ」

 

 四人は女の荒屋で飲み明かした。

 一夜明け、女が盗んだ金は勇儀が持ち帰り、一時的に預かることとなった。

 女の処遇についても、何か手に職を持たすことで食い逸れることのないよう取り計らうと勇儀は固く約束した。

 

 そして、女の盗んだ金を貯めた壺を改める時分になってのことである。

 

「大したやつだねえ、一人でこれほどやってのけるのは」

 

 勇儀は壺に貯まった相当数の銭入れに、素直に称賛したものである。

 

「昔は〔一本取りの九十九〕とも渾名されてたものでござんすよ」

「粋な名だねえ。百から一本取って九十九ってわけかい」

「左様でござんす」

 

 二人が話す横で、ヤマメとパルスィは女がつけていた帳簿を見ていた。

 帳簿はスった日付と金額を慇懃に記したものである。ひとしきり眺めると、パルスィはそれを勇儀に手渡した。

 

「ほう、ちゃっかりしてるねえ。これならどんな店の店主にでも、すっと納まるかもしれない」

 

 勇儀はぱらぱらと頁を捲っていたのであるが、その手が急に止まった。

 

「ねえ、目女。記録を忘れたことってのはないかい?」

「とんでもないことでござんす。アタシはこの帳簿をつけるのを楽しみにしてたくらいでさ。漏れはないはずでござんすよ」

「何か気になることでもあったの、勇儀?」

 

 パルスィが聞くと、勇儀は溜息を吐いて答えた。

 

「これだけの量だ、目女を捕まえた時点で解決したもんだと思っていたんだけどね……

 勘定が合わないんだよ。目女が使った分を補填しても、被害の総額には届かない……」

 

 ヤマメもパルスィも、その言葉が意味することを感じ取った。

 

「そんな、スリは一人じゃなかったの?」とヤマメ。

「勇儀、これは……」と、パルスィは勇儀を見た。

 

 勇儀は、ふんと鼻で笑い、目付きを鋭くする。

 

「まだ、旧都に怪力乱神が居着いていやがるねえ」

 

 盃に張った水面が、力強く揺れた。

 

――第三幕へ続く――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〜第三幕〜

 

 

 椋鳥白羽は、今なお旧都で続いているスリを捕まえるべく、情報を集めていた。

 白羽は旧都でそこそこ知られている瓦版――〔ヰ駄天新報〕の読売である。

 しかし、それ以前に、白羽には一つの肩書があった。

 地下世界の元締めの済む屋敷――地霊殿の主の妹君、古明地こいしの〔ペット〕である。

 実際のところは、こいしの教育係として地霊殿に世話になっているということなのだが、

 

(好きなことさせてもらって、飯まで食わせてもらってる。やはりペットに違いはない)

 

 と言って憚らないのである。こいしの放浪癖のために教育係としての職務を全うできていないというのも、少なからず関係があるのかもしれない。

 しかし、この白羽もスリの事件を追ってより、地霊殿へ帰っていない。

 時折、古明地さとりのペットが声をかけてくるのだが、その度に「元気でやっている」との言伝を頼む次第である。

 

(この事件のことは、さとり様の耳に入れたくない)

 

 さとりは心を読む能力を持つ。顔を合わせれば、白羽の心配するところも全て了解することだろう。そうすることで心配をかけさせたくないのである。

 しかし、その不安もさとりのペットを介して薄々と伝わっているだろうと考えると、思うことはなくもない。

 とにかく、事件が解決するまでは地霊殿に戻らないと決めた。だからこそ、地霊殿に早く戻れるよう努めているのであった。

 

 先日、友人の星熊勇儀から「スリの主犯を捕まえた」との連絡があった。勇儀に連れられ面通しにも行ったものである。

 スリの主犯は妖怪、百々目鬼であった。九十九目女、二つ名を〔百々目鬼のおめめ〕という。

 目女は勇儀の援助の元、飲み屋の店主として旧都での暮らしに復帰することになった。それを支えるためにも、目女がスリであったことを、引いては勇儀がスリを捕まえたことを黙っていてほしいと頼まれたのである。白羽は二つ返事で首を縦に振った。

 

 スリを捕まえたと報じないのには、もう一つ理由があった。

 目女の盗みとは違うところで起きたスリのためである。勇儀が目女をして「主犯」と呼んでいたこともそれに由来していた。

 騒ぎに便乗した「模倣犯」がいる、白羽はそう睨んだ。スリを捕まえたと報じては、その模倣犯もぱたっと黙ってしまうかもしれない。そうなると尻尾を掴むのは至難の業である。

 

(大物の影に隠れてこそこそやるとは……)

 

 まったくもって、見下げた根性である。

 白羽は旧都の皆、特に飲み屋の店主などに、スリの被害者がいたらその者にスリの面相を問い質すよう頼んだ。

 すると、情報は次々と入ってきた。しかし、それは望ましい情報ばかりではなかったのである。

 飲み屋の店主が、今まさにスリの被害に気が付いたという御仁にスリの面相を質したところ、その得た答えというのが様々であった。

 聞き及んだスリの姿は、小男から大女、大男から小女まであるという。

 

(模倣犯は複数いるのか、厄介なものだ……)

 

 そして、それと併せて耳に入った情報が、ひどく気になった。

 白羽と気心の知れた飲み屋の店主の話である。

 その店主は、客がスリに遭った時分にツケていた分を無心しに行ったそうな。

 

「目的はそれだけではございませぬ。そのときにスリの面相についても伺おうとした次第で……」

 

 と注釈していたが、白羽には金の取り立てを責めるつもりなど、毛頭ないのであった。

 店主は客が告げた住所を頼りに家を探したのだが、

 

「住所は出鱈目も出鱈目。無論、客は見つかりませぬ」

 

 と言う。これを聞いて、白羽は、

 

(スリばかりが悪いものばかりだと思っていたが、スられた方にもなかなかどうして悪いのがいる……)

 

 長く、唸ったものである。

 このことを勇儀に告げると、「よおく、わかったよ」と言ったはいいが、勇儀はスリを捕まえようとはせず飲み屋――目女が経営している――に入り浸って酒を飲んでいる。

 スリを捕まえる算段でも練っているのかと考え、聞いてみると、

 

「スリの方はね捕まらないよ」

 

 と言うのであった。鬼は嘘を言わない。勇儀が「スリは捕まらない」と言うのなら、本当にそう思っているということである。

 しかし、その言葉とは裏腹に、勇儀の目にはなぜか自信を湛えているように見えた。

 

(一体、何を考えているのだろう……)

 

 白羽には、この朋友の腹の内がわからなかった。

 であるのだが、こうとも思うのである。

 

(わからないから、怪力乱神なんだ……)

 

 勇儀は嘘を吐かない代わりに、本心を語らないことをよくする。

 しかしそれは拒絶ばかりを意味するのでなく、どこかしら惹きつける魅力のようなものを感じさせるのだ。

 白羽は事件を解決しようと息巻く一方で、勇儀が犯人を捕まえてくれることを期待していた。

 

 

 

 

 

 

 本矛狸之介は大通りに構える芝居小屋――〔さぬきや〕の一座を取りまとめている、座頭である。

 狸之介は老体に鞭打ち、皺を白粉で埋めながら、今も舞台に立っている。

 〔千両の狸之介〕と呼ばれ老練な芝居を見せるのだが、一座の看板役者は弟子の〔狢の業〕である。その中性的な美系の造りは、男にも女にも好かれている。

 後継ぎをその〔狢の業〕こと穴熊業平に決めたことには決めたのだが、この後継ぎ、女好きで酒好きの粋人で酔人である。

 とても一座を任せられたものではない。

 かといい、芝居が滅法巧いというのは事実である。化粧の技術にしても一流のものを見せる。

狸之介は、すでに全盛期の自分をも上回っているのではあるまいか、とも思っている。

 それだけに、

 

(惜しいものよのう……)

 

 なのである。

 それさえなければ、すぐにでも座頭の肩書を業平に渡そうという狸之介である。

 先日も、楽屋を訪ねて来た古い友人、星熊勇儀も「ははあ、狸之介どんの演技は危なくて見てられないよ、早くご隠居したらどうだい?」と言う始末。

 

(引き際が大事だってのは、アッシもわかってることでさあ……)

 

 やはり気がかりは弟子の業平のことである。業平が芸に身を固めてくれさえすれば、そう考えたのは幾度か、数えられたものではない。

 勇儀もその弟子のことを気にかけていたようであった。狸之介と話を終えると「業平ってのはいるかい?」と切り出したのである。

 いれば勇儀に拳骨の一つでもくれてもらおうとしたのだが、狸之介は恥じ入りながら、

 

「どうやら、とっくに小屋を抜けたようでさ」

 

 と言ったものであった。しかし、勇儀は、

 

「それならそれでいいよ。そうだ、狸之介どん、ちょいと舞台裏を見物させてもらっていいかい?」

 

 そう言うと、勇儀は舞台裏を見て回っていた。特に衣装などに興味を持って見ていたようである。

 帰るときに、

 

「それじゃあ。風邪、引かないでくれね。私も、狸之介どんやキスメに応えられるよう頑張るよ」

 

 と言って去って行ったのであった

 狸之介は何が何だかわからない心持で見送ったものである。

 そうして、今日も、公演がある。

 業平は稽古に出ることは少なく、公演間近にやってくる。

 それですぐに支度を整え演じて見せるのだから、これは他の者によくない。

 他の役者にも自尊心というものがある。それを傷つけかねない。否、あからさまに業平を嫌う者もいる。

 一座に不和をもたらす業平、もう放ってはおけない。

 

 今日も勇儀は来るのだろうか。

 一時期はスリを捕まえるのに忙しく、今は酒を飲むのに忙しい勇儀である。

 先日も、その間隙を縫って来たに違いない。

 来ないかもしれないが、期待せずにはいられない。

 勇儀なら何とかしてくれる、そう思わせる何かを勇儀は持っている。

 

 狸之介は勇儀の持つ、怪力乱神を想った。

 

 

 

 

 

 

 星熊勇儀と〔百々目鬼のおめめ〕との捕物劇から随分日が経っていた。

 〔百々目鬼のおめめ〕こと九十九目女は店の開店準備に追われている。

 名うてのスリ師だった目女は今や、飲み屋〔めだまや〕の店主である。

 勇儀の斡旋で就いた仕事、あるいは人足と言う方が的確かもしれない。

 

(あのあと……)

 

 勇儀は目女の盗んだ金を、鬼たちからの補償金として被害者に返そうとしたのだが、「もともと宵越しの銭を持つ気はなかったもんで」と受け取りを拒む者が多数であった。

 店にツケていた分も支払は済んでいるらしく、代金を肩代わりすることもできなかった。

 目女は改めて、過去に囚われない旧都の住民に舌を巻いたものである。

 

 金が、余ってしまったのである。

 勇儀はそこで、飲み屋を一軒開業し、その店主を目女が務めるよう提案した。

 その由来というのは、目女がつけていた――スッた日付と金額が記してある――帳簿を勇儀が苦笑いを浮かべながら眺め、

 

「なかなかにちゃっかりしてるねえ。これなら店主も任しておける」

 

 と言ったものであった。

 たしかに、店主をやっている限り、スリをする暇はない。

 そして客から金をスることもない。そんなことをせずとも、金を渡してもらえるからだ。

 

 とはいえ、店主としてやっていく以上、閑古鳥が鳴くのは勘弁願いたい。

 

「何か目玉になるのがほしいねえ、客を惹きつけるような」

 

 勇儀もそう言うので、目女は苦心してそれを探すこととなった。

 そのうちに発見したのは、『霧雨魔法店』を開業している怪しげな商人であった。

 霧雨魔法店は店を地上に構えているらしく、地底では通りにゴザを敷いて品物を並べただけの、粗末な有様で展開している。

 ガラクタを並べているようにしか見えないのだが、地上のものという物珍しさで飛ぶように売れている。

 聞けば、地底で遊ぶために、地底での通貨が必要だというだけで店を開いているらしい。

 この商売に達者なようで無頓着な店主に、目女は目をつけた。

 

 目女は店主に地上の酒を仕入れてくるよう頼んだ。

 会話をするうちにわかったのだが、この店主は勇儀の朋友らしい。それもあってか、とんとん拍子に話は進んだ。

 目女は飲み屋で、地上の酒を『輸入モノ』と銘打ち、売り出した。

 これがなかなかの人気で、早くも常連がついたくらいである。

 

(でも……)

 

 目女には気になることがあった。最近、霧雨魔法店の店主が地底に来る回数が少なくなったのである。酒の備蓄はあるが、いつ来るかわからないのでは、後々心配である。

 実はこのとき、霧雨魔法店の店主はとある事件に関わっていたのだが、そんなことは露とも知らぬ目女であった。

 

(まさか、あの店主が今、地底で盗みを働いているスリだなんてことは……)

 

 こうして、あらぬことを考えてしまう次第である。

 考えているうちに、開店間近になった。

 戸を叩く音がする。開店時間前に来るとなると、客は決まっている。

 お決まり通りに勇儀が現れた。

 

「よお、景気はどうだい?」

「それは、姐さんもよくご存じでござんしょう?」

 

 勇儀は「そうだねえ」と座敷の席へと歩いて行った。

 勇儀はこの店が開業して以来、開店時間から閉店時間まで飲み続けているのである。店の売上の半分は勇儀が飲んだ分だというのだから呆れた話である。

 どうあれ、商売繁盛に変わりはない。

 

「一時期はスリを捕まえようと、見回りに精を出していたものでござんしたが……」

 

 今もスリの被害は絶えていない。

 しかし、あるときを境に、勇儀はぱったりと見回りを止めてしまった。

 この店で飲み明かしてばかりである。

 もしや、犯人を捕まえることを諦めてしまったのでは、と目女は心配していた。

 

「スリの方は捕まらない、絶対に」

 

 勇儀は目女に強く言った。

 

(ああ……さしもの姐さんもスリに屈したのでござんしたか……)

 

 実は勇儀、このときにおいてなお、犯人を捕まえる闘志を失ってはいなかったのである。

 そのことも――露とも知らぬ目女であった。

 

 夜も更け、客は勇儀一人だけとなった。客のいるいないにかかわらず、勇儀は終始、座敷で忍ぶように酒を啜っている。

 そのとき、女らしい客が店の中に入って来た。

 すでに出来上がってるようで、ろれつが回っていない。

 

「いらっしゃいまし、お一人ですかえ?」

「聞いたよぅ、ここにゃ珍しい酒があるんらってねぇ。

 そいつを一つ、ひっく、いただこうかねぇ……」

 

 早速『輸入モノ』の酒を注文する客、その姿を勇儀は座敷から、客に気取られるように注意深く眺める。

 

(ふふ、奴さん、ようやく来たかい……)

 

 そして、勇儀は誰にも聞こえぬほどの声で呟いた。

 

「さあて、仕置きの時間だよ……」

 

 盃に張った水面が、乱れて揺れた。

 

――第四幕へ続く――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〜第四幕〜

 

 

「うぃー、それじゃア、勘定を……」

 

 酔った女の声である。店主――目女は「あい」と返事をし、伝票を差し出した。

 その客は懐に手を入れて、銭入れを探っていた。

 しかし、ふいにその手が止まった。身体のあちこちを叩いたかと思うと、今度は震え始めた。赤かった顔も酔いが飛んだように青くなる。

 

「ははあ、お客さん、スられたね。いいよ、困ったときはお互い様。今日の分はツケでよござんす」

 

 飲み屋の店主――目女が客を安心させるように言った。

 客は慇懃に頭を下げて、店を後にしようとした――そのときである。

 

「いやあ、ツイてないねえ、お前さん」

 

 語りかける影が一つ。

 歯の高い下駄、鼻緒は赤い。

 足首に嵌められた枷、枷から垂れる鎖が歩を進める度に踵を打つ。

 ハイカラな傘を思わせる腰巻、裾は膝下で揺れている。

 半袖の襦袢、伸びる両腕の手首には枷が嵌められ右手には大盃を携える。

 盃を傾けて顔を覆う。一口で飲み干し、盃を下げる。

 露わになった額、星を掲げた赤い角。

 星熊勇儀が客の前に立った。

 

「まあ、気にしないことだよ。すっかり酔いが覚めただろう、一緒に酔い直さないかい?」

 

 勇儀は、「勘定は私が払うから」と客を元いた場所へと座らせた。拒否権は与えられていない。

 

「さあ、景気づけの一杯だ」

 

 そう言って、勇儀が自分の大盃に酒をなみなみと注いだのである。

 

 

 

 

 客にその大盃を差し出した。客はその盃の大きさに面喰った。むしろ、引いていたと言える。

 しかし、心とは裏腹に、手はそろそろと盃へと伸びていく。

 

(な……どうして……)

 

 両手で盃を持ち上げ、盃を口元に近付ける。

 この動作すら、意図したものでない。

 何か、操られているような……

 

「そうだ。そして、もう一つ――」

 

 勇儀は客に言霊を発する。

 

 

 

 

 盃が口につき、酒が口へと流れ込んでくる。

 その言葉を最後に抵抗する気力が失せた。抵抗しようにも、口が、両手が、盃から離れないのだ。

 なおも酒は口へと流れ込んでくる。盃の重さで腕が震える。腕の関節も、固定されたように動かないのだ。ずっと、大盃を仰ぐ姿勢のままである。

 

(う……苦しい……)

 

 それでもまだ酒を飲み続ける。どれほど減ったものか、盃へと目を落とす。

 

(これは……?)

 

 盃が先ほどよりも大きくなっている。それだけではない。

 飲めば飲むほど盃は大きくなる。酒の量もそれに比例して多くなっている。

 その分だけ、盃は重くなる。手は痺れ、感覚は希薄になっている。

 

「おいおい、そんな苦しい顔してどうしたんだい?もっと美味しそうに飲まないと。だってこれは――」

 

 勇儀はにやりと笑う。

 

「お前さんの好きな、ただ酒だろう?」

「う……」

 

 勇儀は語りかける。

 

「この前、芝居小屋に行ったよ。お前さんの演技、大したものだった。こう言っちゃなんだけど、今の狸之介どんより巧い。鬼は嘘を言わない、信用していいよ」

 

 客は黙りながら聞く。声を出そうにも出せない。

 もう胃の許容量をはるかに超える量を飲んでいる。

 そして今も膨大な量の酒が流れ込んでくる。逆流しようにも、その暇がないほどに。

 

「演じる芝居も、度胸も大したもんだ。だけどそりゃあ、舞台の上だからこそ輝こうってものだよ。だから、それを――こんな、くだらないことに使うんじゃないよ」

 

 勇儀は、すぅと息を吸い込んだ。

 そして、一喝。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「てめえでてめえの芸を貶めるな、この愚か者が!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その怒号は店中の酒瓶を割らんばかりに響いた。

 

「ひい!」

 

 客はその勢いに押され、後ろへ倒れた。盃を手放し、酒を零してしまう。

 そこで改めてその異常に気付いた。

 酒を飲んだ分、腹が膨らんでいる。それも八尺ほどのとんでもない大きさである。

 そのとんでもなく大きなものが心の臓を圧迫するのだ。その圧力たるや、並でない。

 

「あーあ、零しちまったねえ。零さなかったら、許してあげようかと思ったけど、こりゃ駄目だねえ」

 

 勇儀は悪戯っぽく笑う。

 そして、矢庭に、厳しく睨みつけた。

 

「さあて、仕置きだよ。拳骨の一つ、くれてやる」

「ひ……ひぃ……」

 

 腹に溜まった酒で、なんとも逃げられそうにない。

 慌てて手で頭を覆い、膨らんだ腹のために仰向けで這う様は、滑稽で仕方がない。

 

「どうした、怖いかい?」

「は、はいィ……」

「そうかい、怖がらせて悪かったね。わかってくれればいい、許してあげよう――」

 

 勇儀は優しく笑いかけた。

 それを見て客も安心した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんて言うわけないだろうが!!このたわけ!!

 

 再び喝を入れる。

 そして――

 

「お前みたいな根性無しは一発殴らないと、駄目だ」

 

 勇儀は膨らんだ腹を目がけて正拳突きを入れた。

 水風船のように膨らんだそれは、やはり水風船のように破裂した。

 腹に溜まっていた酒が、どばっと店の中に流れ出る。

 見れば、放られた盃からも酒がなみなみと溢れている。

 瞬く間に、店の中は酒浸しになってしまった。

 

「次にお前さんの芝居を見せてもらうのは、舞台の下でだ。早く狸之介どんをご隠居させてやることだよ、狢の業よ」

 

 狢の業――穴熊業平は答えることができなかった。

 上がった水位ならぬ酒位が、倒れている業平の口元まで達していた。

 そして酒は業平の顔まで覆っていく。

 

「顔を洗って、出直して来い」

 

 それは――不届きな役者に一番相応しい言葉であった。

 

 

 

 

 

 

「い、一体何があったんでござんしょ」

 

 目女が驚いたように言った。

 店には一人の女――否、女装した役者、穴熊業平が泡を吹いて倒れていた。

 勇儀がそれに何やら話しかけていたのであった。

 意識を取り戻そうとしているのかと思ったが、どうにも様子が違う。勇儀はときに叱りつけるように怒鳴るのである。

 そして、それも終わったようであった。

 

「悪いねえ、店の中を酒で一杯にしちゃったよ。こりゃ大変だねえ」

「へ、姐さん何を言ってるんでござんしょう?零れてる酒といえば、これだけで……」

 

 目女は土間に零れた酒を示した。これは客が、業平が勇儀の杯から零したものである。

 業平は勇儀が酒を注いだ盃をぎこちない様子で持ち、一口飲んだ途端に、泡を吹いて倒れたのであった。

そのときに盃の酒が零れたのである。大きな盃とはいえ、零れた量はささやかなものである。

 

 

「まあ、こっちの話だよ」

「それにしても、このお客さん、どうしたんでござんしょう」

「さあねえ、叱られている夢でも見たんじゃないかい?〔めだまや〕だけに、大目玉食らったって具合だね」

「はあ……」

 

 勇儀は「さて」と言い、倒れている狢をひょいと肩に担いだ。

 

「こいつを返しに行かないとね」

 

 業平を抱えている芝居小屋〔さぬきや〕へと行くようであった。

 そして勇儀は落ちている大盃を拾った。ついた土を払い落して、

 

「あーあ、もったいないねえ」

 

 業平が零した酒を恨めしそうに眺めたのであった。

 目女も酒が零れた土間に目を落とした。

 零れた酒は水溜りのような様態であったが、地面に染み込むのが早いか、空中に気化するのが早いか、時間が経たぬうちに消えてしまった。

 

「これで――」勇儀が、誰に話すともなく、言った。

 

「これで、怪力乱神も消えたよ」

 

 言い残して〔めだまや〕を去ろうとする勇儀であったが、

 

「待ってくださいまし――」目女が呼びとめた。その手には酒瓶を携えていた。

 

「その有様じゃあ、酒が注げないでござんしょう」

「ふふ、気が利くねえ」

 

 目女は勇儀の盃に酒をなみなみと注いだ。勇儀はそれを一息で飲み干した。

 

「やっぱり、仕事の後の一杯は格別だねえ」

 

 そうして勇儀は、神酒の味を噛みしめたのであった。

 

――幕切れへ続く――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〜幕切れ〜

 

 〔狢の業〕こと穴熊業平は芝居小屋〔さぬきや〕の役者であった。

 この業平、殊に女好きで酒好きであった。

 しかし、そんな醜聞とはまるで縁のなかった業平である。

 その真相たるや呆れるものであった。

 

 業平は小屋を出る際、変装して出て行ったのである。

 それ故、それが希代の役者の穴熊業平であると気が付かなかったのであった。

 変装するための衣装ならば、小屋にたんまりとある。

 後の話では業平は化粧も使って老若男女に化けていたという。

 まさに狢の業という具合である。

 

 ときに、座頭の狸之介に、変装をしているところを発見され、慌てて逃げたことがあった。

 そのときは業平は女装をしていた。業平は中性的な顔つきの美系で、化粧をすれば女にしか見えない。

 その様子を見たパルスィが「狸之介が若い女につきまとっている」と勘違いをした次第である。

 

 話を戻そう。

 そうしているうちに、業平の耳に一つの噂が飛び込んできた。

 旧都に蔓延るスリの噂――これは言うまでもなく、百々目鬼が元凶である。

 業平はこれを聞いて、あらぬことを思いついた。

 

(スリに遭った客を演ずれば、酒代を踏み倒せるのではあるまいか)

 

 一度成功すると、それで味を占めた。その後も次々と成功していく。

 初めは女と遊ぶ金の惜しさにしていたのであったが、そのうち、

 

「被害者を装って人を騙す、っていうそのこと自体が癖になっちまったみたいだね。

女遊びよりそっちに熱を上げてたってんだからほとほと呆れるよ」

 

 勇儀の言葉を、黒谷ヤマメ、キスメ、水橋パルスィの三人は黙って聞いていた。

 ここは目女の飲み屋〔めだまや〕の座敷の中である。

 そこでヤマメが聞いた。

 

「でも、勇儀はどうして業さんが犯人だってわかったのさ?」

「業平がめだまやに来たときに着てたのが、さぬきやにある衣装と同じだった。それで、これは業平が変装したものだって睨んだわけだよ」

「そうじゃなくて、そもそもなんで業さんが怪しいって思ったのかが知りたいんだよう」

「それは、言えないねえ」

「そんな、殺生な……」

「摂政も関白もない。言えないったら、言えないんだよ」

 

 勇儀は盃を傾け、酒を啜る。その様子をキスメはじっと見ていた。

 実は、業平が怪しいと初めに気付いたのはキスメである。

 キスメは業平のファンであった。

 勇儀が、業平が女遊びをしている旨の話を聞いて、真偽を確かめるために、街道の見回りそっちのけで芝居小屋を張っていたのだ。

 しかし、この判断が後の事件解決に繋がるのだから、因果な話である。

 キスメは業平が小屋をこっそり抜け出している事実に早い段階で気付いていた。

 

「……でも恥ずかしくて、言い出せなかったの、ゴニョゴニョ」

 

 だそうである。それでも勇気を振り絞って勇儀に告げたのだった。

 勇儀はこのことを誰にも話さないと誓った、だから話さないのだ。

 そこで勇儀は業平がスリの被害者に化けていると睨んだのである。

 しかし、これだけでは業平がスリの騒ぎを起こしたとは言えない。

 捕まえるとしたら、現場を押さえるほかないのだ。そこで勇儀は、

 

「網を張って待っていたってわけだよ。ヤマメのお株を奪うような真似をして悪かったねえ」

「そうだよ、株を奪うなんてひどい!せめて友好的М&Aにしてよ!」

「そういう問題?」

 

 パルスィが呆れて突っ込んだ。

 勇儀は〔めだまや〕に、業平がスリの被害者を装って現れるのをずっと待っていたのだ。そのため、目女に何か客を惹くような努力をするよう奨めていたのである。

 結果、地上の酒――輸入モノに釣られてやってきた業平を捕まえたのであった。

 

「それよりも、酒よ。勇儀は一体何の酒を飲ませたの?」

 

 聞いたのはパルスィである。

 

「普通の酒。でも隠し味に――怪力乱神を入れた」

「な、何よ、それ?」

「パルスィも飲んでみるかい?怪力乱神」

「やめておくわ……」

「そうかい。美味しいのに」

 

 業平はスリの被害を狂言したとして、『ヰ駄天新報』で報じられた。

 初めは地底の者も衝撃を受けたが、それも収束していった。今ではすっかり笑い話としての定番となっている。騙された店の店主も、そのことを誇らしげに語るのである。

 たくましい地底の民を象徴する出来事であった。

 

 その後、業平は酒はほどほどに、女遊びはすっぱり止めた。

 それに免じて、過去の女遊びについての醜聞が報じられることはなかった。

 件の業平も、今では一座の座頭である。

 

 そこで四人に声をかける者があった。

 

「どうも、この度はウチの馬鹿狢がご迷惑をかけてしまった次第で……引継ぎやらで出張れなくて、挨拶が遅れっちまいました」

 

 一座の元座頭、本矛狸之介である。

 

「よく来たね、狸之介どん。畏まらないでいいよ。ささ、座敷に上がってくれるね。そこ、段差があるから気を付けて」

 

 狸之介は座敷に上がり、酒の席に加わった。

 

「ははあ、別嬪さん四人に囲まれて酒を飲むたぁ、アッシも業のことを強く言えないでございますことよ」

「何を言ってるんだい、狸之介どん。もうご隠居したんだ、何にも気兼ねすることはない。

 それに、そりゃあ昔の話だろう。気にせず飲むといい」

 

 そう言って勇儀は狸之介のお酌をした。

 それを聞いて、狸之介どん、

 

「座頭がご隠居。これが本当の――隠れ座頭でありますことよ」

 

 いかにも芝居がかった口調で言ったものであった。

 これを聞いて、四人は大いに笑ったものである。

 

 こうして、旧都の明るい夜は更けてゆく。

 今日も――旧都は粋と酔で満ちている。

 

(了)

 

 

 

 

 

後書き

 東方創想話に投稿した作品を修正しました。無修正のやつはこっ(東方創想話内のページに飛びます)を参照のこと。

 創想話版の後書きの通り、鬼平犯科帳のオマージュな作品です。

 改稿にあたり約半年振りに読み進めたわけですが、未回収の伏線が多過ぎですね。というのも、元ネタに準じてシリーズ化を計画していたからなんですが。

いつか同人誌としてまとめてみたいと考えているのですが、いつになるやら。

 

以下、テンプレ。

 

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。

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